学術研究助成紀要 第3号

DNP文化振興財団では、グラフィックデザイン、グラフィックアート文化の発展と学術研究の振興を目的として、幅広い学問領域からグラフィックデザイン、グラフィックアートに関する研究助成を実施しています。
本書は2020年3月までの採択研究の成果を編纂したものです。

要旨

注:著者の所属と職位は、紀要刊行時点のものです。

  • 独立以前のエストニアにおける風刺画家と発行物の相関

    有持 旭近畿大学 講師

    1991年にソビエトから独立したエストニアは、およそ50年間、芸術文化は閉ざされ限定的なものであった。西側の芸術に憧れながらもソビエト社会の不条理な状況に対抗するべく多くの風刺画が描かれ、文芸新聞や風刺雑誌を通して多くの国民がそれらをみてきた。こうした歴史は、いまだ世界であまり明らかにされていない。本論では、現存する数少ない一次資料の収集と当事者へのオーラル・ヒストリーを方法に、ソ連時代のエストニアにおける発行物と風刺画家の関係を捉えながら、エストニア風刺画文化の史実を明らかにする。
    本論では、まず出版文化をみていく中で、文芸新聞『Sirp ja Vasar(シルプヤヴァサル)』と風刺雑誌『Pikker(ピッケル)』の特徴と相違、および風刺画集や近隣諸国の風刺雑誌との関係を概略的に示した。次に、エストニアの風刺画家を三つの世代に分けそれぞれの活動を分析した。中でもプリート・パルンに注目し、彼が風刺雑誌で行っていた市民に対するユーモアの教育にも触れた。さらに、こうした風刺画文化がどのように衰退していったのか、その終わりに関しても明らかにした。
    本論を通し、ソ連時代の閉ざされた文化形成期におけるエストニアの風刺画史の一片を提示する。

  • エンブレムブックの中南米のキリスト教美術への影響
    —パラシオ・デ・ラ・アウトノミア(メキシコシティ)とサン・フランシスコ修道院(サルヴァドール)を事例として

    伊藤博明 専修大学 教授

    バロック期のヨーロッパにおいては、テクストとイメージから構成され、それらが相補的な機能を果たす新しい文学的=絵画的ジャンルであるエンブレムブックが数多く刊行された。それらのあるものは、イエズス会士たちによって中南米に持ち込まれ、聖堂や修道院、また公的建造物の装飾に利用された。パラシオ・デ・ラ・アウトノミア(メキシコシティ)のパラニンフォの間には、18世紀の中頃にペドロ・サンドバルが油彩で描いた12枚のシビュラの図像が飾られている。これらの典拠は、オランダの版画家クリスピン・デ・パセが1601年にユトレヒトで刊行した『12人のシビュラのきわめて優雅な図像集』の一つの翻案である、ジャック・グラントム版(パリ、1602-09年)に求められる。サン・フランシスコ修道院(バイア州サルヴァドール)の回廊は、1745から50年にかけて、ポルトガルで制作された「アズレージョ」と呼ばれる、青と白の装飾タイルで壁面が覆われた。その37の場面はすべて、オットー・ウェニウスが1607年にアントウェルペンで刊行した『ホラティウスのエンブレム集』のスペイン語版(1669年、1672年)の図像に忠実に従って制作された。

  • 雑誌『de 8 en Opbouw』におけるパウル・スハイテマのグラフィックデザイン手法

    井上宗則秋田公立美術大学 助教

    本研究の目的は、オランダのグラフィックデザイナーであるパウル・スハイテマ(Paul Schuitema, 1897-1973)のデザイン手法の一端を明らかにすることである。分析の対象は、スハイテマが1932年から1937年にかけてデザインした建築雑誌「デ・アフト・エン・オップバウ」の表紙である。まず、これらの表紙を構成する要素の変遷を明らかにし、写真やスケッチといった、表紙に使用されている画像の種類について整理した。その上で、画像と「de 8 en OPBPUW」のロゴタイプの配置関係を分析し、以下の構成的特徴を明らかにした。
    1) 様々なロゴタイプの配置による表紙の制作を経て、ロゴタイプの位置が固定化され、表紙のフォーマットが形成されたことを明らかにした。
    2) 表紙と誌面の画像を介した直接的な関連性が希薄化され、使用される画像の種類別使用率の割合が平準化されていく過程を明らかにした。
    3) 表紙の画像とロゴタイプは、重ねて配置されることが多い一方で、これらの配置に明瞭な規則性が認められないことを明らかにした。
    この研究結果は、「デ・アフト・エン・オップバウ」の表紙を、同一の構成的特徴を有するスハイテマの作品群として捉えることに対して、修正的な視点を与えるものである。

  • 20世紀初頭の英国前衛美術と印刷メディア
    —雑誌『Blast』のデザインとその思想

    要 真理子跡見学園女子大学 教授

    本研究においては、ウィンダム・ルイスとヴォーティシズムを中心に展開した20世紀初頭の英国前衛芸術運動と印刷技術との関わりを、これまであまり注目されてこなかった造形面から掘り起こすことによって、モダニズム芸術へのオルタナティヴな視点を提供することを試みている。国内に加えて、英国と米国で作品調査と文献調査を行い、芸術家の態度表明(マニフェスト)を支えた印刷メディアの検討を通じて、広義のモダニズム芸術思想の文脈の中で印刷という複製技術の位置づけを再考した。本稿では、特に1914年に創刊された『Blast(ブラスト)』を取り上げ、これを同時代の未来派の自然音に由来する文字配置や視覚詩などの系譜から切り離し、デザイン面(純粋なる抽象の追求)においては、エル・リシツキーやロシア構成主義、思想面(メディア論)では、マーシャル・マクルーハンへの影響が認められることを指摘した。

  • 小中学校デジタル理科教科書における「技術」のイメージに関する研究

    郡司賀透静岡大学学術院 准教授

    本研究の目的は、二つある。一つ目は、学校教育において普及浸透しつつあるデジタル理科教科書研究において対象化されてこなかった、「技術」の画像・映像教材がどの程度登場しているのか、実態を解明することにある。二つ目は、その画像・映像教材が児童・生徒にいかなるイメージをもたらすのか、追究することにある。
    はじめに、小学校および中学校のデジタル理科教科書を収集し、「技術」に関する画像教材の対象、種類(模式図、イラスト、写真など)等々をカウントした。デジタル理科教科書における「技術」に関する視覚表象には、多様な種類を確認することができた。次に、デジタル理科教科書における画像・映像教材を使って、附属学校の児童・生徒374人を対象に「技術」に関する質問紙調査を実施した。デジタル理科教科書の「技術」に関する画像・映像教材を視聴した多くの児童・生徒が、「技術」の有する正の側面を想起した。「技術」の有する二面性を知ってはいるものの、負の側面を想起した児童・生徒は少なかったなどの知見を得た。
    最後に、今後のデジタル理科教材の開発視点として、学習課題に対して、学習者自身が必要となる「技術」に関する視覚表象を選択・配列しストーリー(物語)を制作する、デジタルストーリーテリングの可能性を指摘した。

  • 亜欧堂田善の銅版画受容の手法と特色
    —《ゼルマニヤ廓中之図》《素描(洋人)》を中心に

    坂本篤史 福島県立美術館 主任学芸員

    現在の福島県須賀川に生まれた亜欧堂田善、本名永田善吉(1748-1822年)は江戸後期を代表する洋風画家の一人である。1794(寛政6)年に白河藩主松平定信の知遇を得た田善は、その後定信周辺の文化ネットワークの中で、当時日本ではほとんど知られていなかった西洋由来の腐食銅版画技法を身に付け、その過程で、舶載された西洋版画や挿絵入り洋書と出会い、それらの摸刻を行った。
    論者は海外に所蔵される西洋版画を対象として、日本に舶載され、かつ田善が参照したであろう版画、洋書の絞り込みを続けてきた。本稿では田善の銅版画《ゼルマニヤ廓中之図》と《素描(洋人)》に注目し、その原図の特定と原図受容の手法と特色を具体的に考察する。
    原図受容の手法とは薄紙による敷き写しであったと考えられるが、版画芸術においては版と、それによって摺り上がった作品とは鏡像の関係にある。そのため下絵のとおりに版画を摺り上げるためには、かならず下絵を反転させて彫版しなければならない。田善が敷き写しの際に用いた薄紙は、図像を反転させるのに最良の材質であると思われるが、田善が技法習得のために松平定信の周辺で見聞きしたであろう洋書には、転写の手法について、あるいは薄紙の使用についてどのように紹介されているのか。またその手法を田善が使用した可能性はあるのかについて考察を加える。

  • 明治期キリシタン版画にみる日本文化の表象

    白石恵理国際日本文化研究センター 助教

    1868(慶応4)年に来日し、終生を長崎での宣教と慈善福祉事業に捧げたパリ外国宣教会所属の神父マルク・マリー・ド・ロ(1840–1914)は、通称「ド・ロ版画」と呼ばれる大木版画を大浦天主堂で制作主導したことで知られる。それら一連の版画と、プティジャン司教認可の下で発行した教理書類は、当時のカトリック要理教育の実態を知る上で貴重な史料である。
    本研究では主に、ド・ロ神父が明治8–10年頃に制作した大木版画全10種のうち「四終」に関する絵解き教育に使用された5種と、それに先立つ石版印刷物のうち、各丁に装飾文様が施された『弥撒(みさ)拝礼式』『玫瑰花冠(ろざりよ)記録』に着目した。典拠となった中国の版画などと比較しながら、図像や文様の具体的な解析を行い、日本で宣教するにあたって独自に考案された表象上の工夫と特色を明らかにすることを目指した。その結果、「かくれキリシタン」や女性、子どもたちが主たる伝道対象であった事実を確認するとともに、各図様に込められたメッセージに、文明開化期の長崎で展開された東西の文化交流の知られざる一面を見いだすことができた。

  • グラフィックデザインの法的保護に関する一考察
    —意匠法および著作権法における「機能」の扱いをめぐって

    末宗達行 早稲田大学 講師

    本稿は、意匠法上の意匠該当性において要求される物品性に関係し、また著作権法による保護でも応用美術の問題において関係してくる「機能」と、グラフィックデザインの法的保護との関係を明らかにすることを目的とする。まず「デザイン」の概念と法制度との関係を概観し、意匠法における保護と物品性の関係や、応用美術の問題を中心に著作権法による保護を検討した上で、グラフィックデザインの法的保護の在り方につき「機能」概念との関係を中心として若干の考察を行う。
    結論としては、次のようなものである。意匠法は、意匠が物品ないし機能と一体であるという理解の下で制度が構築されており、プロダクトデザインの領域にはよく妥当するであろうが、他方で、機能との関係が比較的薄いグラフィックデザインについては必ずしもそうとはいい難い。グラフィックデザインの実用目的ないし機能をめぐる法的保護における扱いに照らせば、意匠法の制度構造につき大きな変化を前提としないのであれば、著作権保護がグラフィックデザインの中心を担うことが適当であるように思われる。そして、グラフィックデザインに関しては、著作権保護において実用目的ないし機能を考慮することは、原則として必要なく、通常の創作性判断により適切な解決が図られるものと考える。

  • グラフィカルユーザインタフェースの法的保護について
    —Look and Feel についての一考察

    吉田悦子大阪大学知的基盤総合センター 特任研究員

    本研究で取り扱うグラフィカル・ユーザインタフェース(以下、GUI)は、ユーザとソフトウエアとの情報のやりとりの手段として、アイコンやボタンなどデザイン性のあるグラフィック要素を使用して、操作を簡単に行えるようにしたインタフェースである。近年では「モノからコトへ」という消費者の価値観の変容が見られ、ユーザの利便性や製品の魅力向上を考慮した製品開発が行われている。情報機器へのGUIの導入は、ユーザの利便性や製品の魅力向上を実現する多機能性を特徴としていることから、企業は多大な投資を行っている。これはGUIの適切な知的財産権の保護と活用が、既存の企業と新規市場参入者にとって重要な問題であることを意味する。例えば、GUIの技術的な貢献(例:使いやすさやアクセスしやすさの向上)、GUI外観の審美的な要素、GUIの独創的な表現、製品の出所を識別する機能など、異なる種類の知的財産権(または、それらの組み合わせ)による保護の可能性を有しているが、これまでの裁判例をみると、著作権法や不正競争防止法では限定的な保護となることも少なくない。
    本研究では、特にGUIの特徴であるLook and Feelに焦点をあて、GUIを考慮した相互作用について、特許法や意匠法における議論を整理し、制度調和の観点から諸外国の保護の在り方も考慮に入れて、考えられる論点について検討を行った。

  • 芹沢銈介の「絵本どんきほうて」
    —民芸絵本、そして普遍的価値を持つ詩的な作品

    トゥルヒージョ・デニス,アナマドリード・ポンティフィシア・コミージャス大学 教授

    1937年に「絵本どんきほうて」という題名で、芹沢銈介によるミゲル・デ・セルバンテスの『ドン・キホーテ・デ・ラマンチャ』の絵本版が出版された。この論文では、芹沢の絵本を工芸作家(artistcraftsperson)によって作成された民芸作品の一例として取り上げる。また、この絵本を名もなき工芸家(unknown craftsperson)と工芸作家(artist-craftsperson)という概念の間にある民芸運動の明らかな矛盾を描き出す好例として、その異なる制作方法と共に述べる。芹沢は早い段階から民藝協会の一員として活動した。そして民芸運動が盛んになり始めた1935年に『絵本どんきほうて』作成の依頼を受け、1937年に出版することになる。「民芸」という言葉は1926年に柳宗悦によって作られたもので、1936年には日本民芸館が設立された。芹沢の絵本は初期の民芸運動と、それに彼自身が深く関わったという背景から生まれたものであり、『絵本どんきほうて』は、柳宗悦がこの時期に提唱した民芸・工芸・絵画の理論の中に、位置づけられる。一方、この論文では、ドン・キホーテの冒険をめぐる多様な視覚表現の文脈の中に、『絵本どんきほうて』を位置づけることを目的としている。セルバンテスの名作である、下級貴族のドン・キホーテと彼の相棒サンチョ・パンサの冒険を描いた挿絵の解釈は重要な位置を占めていることは間違いないだろう。

  • 言葉は言語を形成し、タイポグラフィは意味を形作る
    —タイポグラフィ、詩、オイゲン・ゴムリンガーの作品について

    マーガー,サイモングラフィックデザイナー、ローザンヌ州立美術学校 研究助手

    慣習的にタイポグラファーの仕事は与えられた本文を最も読みやすく、または最もアクセスしやすい形にレイアウトし、読み手と本文との間の干渉を最小限に抑えるのを約束することだ。だが、タイポグラファーの仕事には他にも役割がある。タイポグラファーたちは時には異なった質や考えの本文を、一貫した視覚的形態、特定のアイデアを伝える形態に独自解釈をすることがあるのだ。タイポグラフィは、単語の意味とそれが表現される紙面などの表面に、一定の関係性を保っている。
    この研究ではタイポグラフィで活字を表現手段として使用し、言語の意味、発音、または視覚的性質を強調する方法に焦点を当てている。未来派の自由な言語から実験的なダダイズム、1920年代の「新タイポグラフィ」からスイスモダニストタイポグラフィの全盛期まで、私たちはタイポグラフィの実験的使用に対する、絶え間ない研究を目にしてきた。しかしタイポグラフィックデザインとそれがもたらす影響を語る際、具体的な詩人の声がしばしば見落とされる。1950年代初期にヨーロッパのいくつかの国とラテンアメリカで出現した詩的運動として、コンクリート・ポエトリーは1970年代末までに忘れ去られる前に国際的に定着した。以下のテキストでは、詩的運動の主要人物の一人であるボリビア生まれのスイスの詩人オイゲン・ゴムリンガーの作品に特に焦点を当て、タイポグラフィの分野で具体的な詩を解釈しようと試みている。

  • 陳列された近代性
    —植民地朝鮮における1920–30年代の広告と図案文字

    ジョン・ヨングンソウル大学 講師

    本稿は1920年代半ばから1930年代まで植民地朝鮮における広告の形式的・技術的変遷に関する研究である。朝鮮と日本の広告の関係を分析することにより広告デザインの変化の社会的、植民主義的意味を探る。調査対象期間(1920–30年代)、いくつかの朝鮮の会社による広告には組み替えが可能な活字や伝統的な書とは異なる表現的・装飾的な手描き書体が登場した。この書体は1920年代から日本の商業美術で台頭し、一般的に「図案文字」と呼ばれた。図案文字は当時日本で拡大していた消費文化の近代性の表れであった。一部の先駆的な朝鮮の広告主は1920年代にこの表現形式を素早く取り入れ、1930年代にはより広く朝鮮の広告界でのその普及に寄与した。日本と同様、朝鮮でも図案文字は「モダン」な消費文化を象徴し、朝鮮の広告に登場した図案文字は、植民地朝鮮における近代性の存在を示していたと言える。しかし本稿はこれらの広告は植民地朝鮮の「陳列された近代性」を反映していたと主張する。「陳列された近代性」とは体系的に実現されたのではなく、皮相的であったという意味である。豊かさの視覚的なイメージと実際の消費の間には明らかな不一致があった。そういう不一致はどの脈絡の広告にも存在し得るが、植民地朝鮮においては特に顕著であった。洗練された様式でありながら、イメージそのものの創造を維持するためのローカルな生産技術は、商工業一般や特に広告デザインにおいて広範にわたり限定されていた。